反道徳論


 ちょっと前に新聞で曽野綾子氏が、「若者に1年間の社会奉仕義務を」、と言っていた。よく聞く「徴兵制の導入で若者の根性を叩き直せ」という主張のバリエーションだが、まったく理想主義的で、現実離れしている。このような説を唱える人は、「公的な教育によって人間は何か道徳的にすばらしい存在になる」、と信じているのだ。だが、実際はどうか。たとえば、厳しい訓練の日々を送っている自衛官が、盗撮やら飲酒運転やらでしょっちゅう逮捕されているではないか。一般人もこれと同じで、何年勉強しても英語が話せない人が大勢いるのと同様に、道徳がどうしてもだめな人がかなり多い。いや、だめな人が圧倒的な多数派だといってもいいのではないか。


 実生活において大多数の人々が遵守しているのは道徳ではなく、ゲームのルールだ。すなわち、「ババ抜きとイス取りゲーム」だ。いやなことは他人にやらせて、自分のポジションをしっかり確保する。これができない人はドロップアウトするしかない。
 たとえば、会社は徹底的に利益を追求する集団だ。安いコストでなるべく大きく売り上げる。そのためには社員に無理難題を吹っかけて、できない人にはさっさとやめてもらう。社員の平均勤続年数が短い方が人件費は安く済ませられるし、課長や係長等の社内のポストの数には限りがあるのだからその方が好都合なのだ。「汝の欲せざるところ人に為すなかれ」という学校で教わった道徳律は、きれいさっぱり忘れられている。


 高い道徳観念を持つ人ほどこのような会社には適応できない。彼が生きるためには、皮肉にも引ったくりかコンビニ強盗をするしかないだろう。寺山修司風に言えば、「子供の頃あまりにもすばらしすぎる道徳教育を受けた人は、大人になってから道徳に復讐される」のだ。
 今の世の中、道徳やら正義やらに縛られていたのでは生き抜けない。「あるべき自分や社会」と「実際の自分や社会」のギャップを気にしていたのでは。だが、気にして思いつめてしまう人が絶えない。「こんなみっともない生き方は終わりにしたい」、と。それが年3万人もの自殺者だ。結局彼らは、道徳観念に追い詰められたのだ。


 このような道徳がもたらす害悪から目をそむけてはならないし、本物の道徳家なら他人に道徳を説くような真似はしないだろう。それでもあえて道徳を説くのなら、道徳と実生活の関係も説明すべきだ。
 こう言うべきだ。道徳は「エンターテインメント」である、と。発想の奇抜さ、論理展開の大胆さ、言葉づかいの巧みさ。それらを楽しんで一時現実を忘れるための「文学作品」なのであって、決して実生活に持ち込んではならない。実生活には実生活のルールがあるのだ。
 折りしも、「正義の話」に関する本がバカ売れして、どこかの「白熱教室」の様子がテレビで放送されている。大人はこれらをエンターテインメントとして見ている。その証拠に、「白熱教室」は日曜夜に放送されているではないか。平日だと視聴者は仕事モードになっているから、番組の内容がバカバカしく感じられて仕方ないだろう。


 それでも何か、実生活における規範めいたものが欲しいのなら、それは実生活の中で、言葉ではなく実際の行動を通して探すしかないだろう。どこまでも深く、沈んでいくしかない。現世の泥の中へ。