不思議の国のアニオタ

 「ケロロ軍曹」、「地獄少女 二籠」、「N・H・Kにようこそ!」、「ちょこッとSister」、等を観ている私は、もともと洋楽のマニアだった。それが、いくつかの「出会い」を経て、演劇やアニメに興味の範囲を広げることになった。そこで、ひとつの謎にぶつかった。それは、「いわゆるアニオタと呼ばれる人たちの一部には、出演本数の少ない声優をそれだけでバカにする傾向があるが、どうしてか」というものだ。事務所の関係者や、声優のヒモをやって生活している人が出演本数を気にする、というのならわかるが。


 芸術の世界では、「作品の数」ではなく、「作品の中で何を成し遂げているか」が全てだ。それを汲み取れる人が、愛好者というものだろう。例えば、活動期間が長くて作品数も多いという理由で、ビートルズよりもローリング・ストーンズの方が偉大だと言うロック・ファンはいない。その他映画や演劇等、芸術の世界で、作品数が多いから立派だ、という褒め方をされる例はない。むしろ、数は少なくともインパクトのある作品を残したアーティストが、神格化される傾向にある。

 
 この点、アニオタと呼ばれる人たちの一部は違う。彼らは、声優の出演本数等の数字が、単純に多ければ多いほどいいのだ。現在アニメは1クール30本以上放送されているが、その大きな流れに身を委ねるのが彼らの悦びになっている。ひとつひとつの作品の内容は、二の次なのだ。愛好者というよりは、中毒者と言った方が正確ではないだろうか。アニメの社会的な評価は高くなっているのに、アニオタの方はそうでもないことの原因は、このへんにあると思う。

 
 また、彼らは声優をアーティストではなく、アニメという製品の一部分=音声に過ぎない、と考えているようだ。これは、やむをえない面もある。ロック・バンドや舞台の俳優と違って、声優は演じているところを観られることがない。テレビの放送やDVDによって作品が鑑賞される時には、すでに演技は終了してしまっている。自分の顔が画面に出ることのない声優と視聴者の距離は遠い。
 
 
 私は、アニメや映画の収録は全て、ネットで公開すればいいと思う。一定の反響があれば、今度は収録を劇場で行う。もちろん、公開の形で。演劇のように、声優は数メートル先の観客を意識しながら演技するようになる。収録の時点で「視聴される」ことが演技にどんな影響を及ぼすか、楽しみだ。観客の方は、声優の声だけでなく表情や身振りを楽しむことができるし、また、収録の時の印象とオンエアの時の印象の変化を楽しむことができる。これがひとつのエンターテイメントとして認められ、「ぴあ」に公開収録のスケジュールが載るぐらいになれば、声優はもちろん、スタッフのすごさも一般に知られるようになり、業界全体の社会的な地位を上げることにつながるのではないだろうか。