2回ほど

宮台真司トークを生で聞いたことがある。

 
 どちらも4、5年前、月蝕歌劇団関係のイベントだった記憶があるが、彼の言葉で印象に残っているのはただひとつ、「宇多田ヒカルは本物のR&Bを歌っている、というけれど、それならば本場のアメリカ人が歌うR&Bを聴けばよい。結局宇多田ヒカルを聴くのは、英語がわからないバカ、ということになる」、というものだ。


 つまらないことを言う人だ、と今でも思う。そもそも彼は、洋楽の楽しみ方がわかっていないのではないだろうか。


 小学6年の時に初めてディープ・パープルの「スピード・キング」を聴いた私は、リッチー・ブラックモアのギター・リフに魅せられたが、「でも、歌詞の意味がわからない。本当に理解できないものを聴き続けてもいいのだろうか」、などと思ったものだった。だが、私は聴き続けている。「歌詞の意味」など、音楽のほんの一部に過ぎないのだ。それよりもリズムやメロディそのもの、ギターのトーン、ボーカルが表現しようとするニュアンス(歌詞の意味とは違う)などに私は惹かれる。また、自分の部屋にいる時は歌詞カードを読みながら聴くこともできるが、ライヴの時はどうするか。その時の気分で、その場で適当に歌詞を想像して作ればよい。だれもそれを禁止することはできない。このことは、実は日本人に限った話ではない。「アメリカ人も、ほとんど歌詞が聴き取れないのにライヴでは盛り上がっている」、と元メガデスのメンバーが、タモリ倶楽部で言っていた。


 宮台ほどのアタマの持ち主になると、英語の歌詞がわからないということもなくなるのだろうが、そのために、かえって歌詞を想像するという楽しみを失ってしまっている。そのことに、彼は今でも気づいていないのだろうか。確かに歌詞はひとつだが、楽しみ方は無限にあるのだ。


 どんなに悪ぶったことを言っても書いても、しょせん必然性というワクの外へ飛び出すことができない。そんな秀才の宮台真司が、もともと演劇に興味があったわけでもないのに、上京してきて「偶然」寺山修司と出会い、独学で音楽を極め、数々の伝説を作ったJ・A・シーザーに対して、強いコンプレックスを持っている、ということは想像に難くない。それが、「シーザーは寺山の後継者ではない」という発言を繰り返す要因になっているのではないだろうか。