地獄少女

が終わりそうだ。

 
 総理大臣が、「人はみな、死ねば仏になる」などとノー天気なことをおっしゃる昨今、半年もの間、首都の土曜の夕方に、地獄のビジョンを呈示し続けた意味は、決して小さくないと思う。「悪いことをしたら地獄に堕ちる」、という最も原始的な道徳律を、視聴者は思い出したに違いない。

 今、「地獄のビジョンを呈示し続けた」と書いたが、それはすなわち、「地獄を創造した」のと同じことではないだろうか。地獄へ行って帰ってきた人間はいない。そもそも今生きている私たちは、昔から伝わる地獄絵などの作品を通してしか、地獄に触れることができない。私たちにとってこの2つは、実質的に同義と言っていいと思う。

 
 「地獄少女」と対照的なのが「まんが日本昔ばなし」だ。かつて放送した残酷な描写を含む怪談を、完全に排除してしまっている。怪談には人間の小ささ、弱さを思い知らせる効用があるが、アニメによって犯罪が誘発されないようにという自主規制なのだろうか。

 アニメの残酷な描写や性的な描写を規制すべきという意見は、宮崎勤に対する判決が出た時に一部の新聞紙上で見られた。仮にそのような法的規制が導入されたとして、「数値目標」はどのくらいに設定されるのか。私の感覚では、アニメとの関わりが問題になるような猟奇的な殺人事件は年に2、3件起こるが、これが4、5年に1件くらいに減ったとしたら、確かに法的規制は意味があったということになるだろう。だが、それにも関わらず年に1件くらいのペースで事件が起こり続けたら、どうなるか。世論は、次の犯人探しを始めるのではないだろうか。それは、残酷な事件を報道するマスコミだ。
 世の中には、常識では考えられないような事件を起こす人間が、確かに存在する。それが報道され、犯人に対してシンパシーを覚える人間が少数ながら存在し、新たな事件を起こす。そのような「連鎖」を断ち切るため、犯人の心理や犯行の態様を生々しく報道しないように、という圧力を、マスコミは受けることになるだろう。
 
 地獄少女の「人を呪わば穴ふたつ」というせりふが、現実に立ち上がってくることになるかもしれない。