エヴァンゲリオン

を駆け足で視聴。テレビで放送された分に加えて、劇場公開版も観る。

 劇場公開版は、蛇足なように思えた。この作品には、2つの軸がある。1つは主人公の碇シンジの心の中で繰り返される葛藤。もう1つは、人類全体の心の隙間を埋めてしまうという人類補完計画。テレビでは後者がシンジのモノローグの陰に隠れがちだが、劇場公開版で集中的に出てくることになる。その結果は、あまり好ましいものではない。整理不足で、非常にわかりにくいのだ。たとえるなら、「ごってりと装飾し過ぎた『2001年宇宙の旅』」、といったところか。人類補完計画をばっさりと切り捨てて、シンジのモノローグで終わらせてしまったテレビ放送のやり方は、やむをえないものだったのではないだろうか。

 
 不器用な作品だと思う。そう、まるで、碇シンジそのもののように。

 
 以下は雑感。

 
 実写版がアメリカで企画されているそうだが、「2001年・・・」のスタンリー・キューブリックが生きていたら、と思う。彼が監督した「シャイニング」と、原作者のスティーヴン・キングが製作総指揮を執った「シャイニング」を見比べると明らかだが、彼には、原作者にも見えていない作品の本質が見えるのだ。「2001年・・・」も「時計じかけのオレンジ」も原作者には不評だったのは、そのためだろう。

 
 綾波レイが何度死んでもまた現れたり、人類が原始の海に還ったりするのは、「ソラリスの海」にインスパイアされたものなのだろうか。

 
 動いてしゃべる綾波を初めて観たのだが、確かに、エロい。感情がないのに肉体的な痛みを感じる、ということは、肉体的な快楽も感じる、ということを暗示している。相手の男は、自分が特別な悦びを与えている、と錯覚することだろう。

 
 劇場公開版冒頭のシンジとアスカのあの場面。実際には、9割以上の男はその場を去って、後でやるだろう。虚構化せずに、その場でやるというのは、彼の想像力のなさを表しているのかもしれない。

 
 私は人類補完計画に、大して魅力を感じない。「世の中が嫌になったから自殺する」というのと、どれだけの違いがあるだろうか。

 
 同じく「14歳」をキー・ワードとする作品に、竹宮恵子の「地球へ」がある。遠い未来、全ての人間は14歳になったらエスパー・テストを受けさせられ、もしも失格したら・・・・・。この世界では、コンピューターが人間の心の補完をすることになっている。見比べてみるのもおもしろいかもしれない。

 
 今は、インターネットが人々の心を補完している。

 
 最後の「キモチワルイ」というセリフ。あれで物語(シンジの葛藤)が振り出しに戻る、ということか。サード・インパクトより強烈じゃないか。

 
 「キライ、キライ、大キライ!」というセリフが、頭から離れないのです。「らぐジェネ」で森永理科さんが引用したキャラは、これだったのか。うーむ、似ている。